行きたくない

シンプルに友達がおらず、知り合いには友達がいるので卒業式行きたくないです。

普段1人で行動している分には何も思いませんが、集団の中にいると強く孤独を感じます。

一般的に正常な人間には友達がいるものと私は考えているので、劣等感でよりつらくなります。

「みんなで」写真を撮りたいらしく、私も早めに行かねばならないのです。数十分どのように過ごしたら良いのでしょうか。嫌だなあ。

コンビニ人間

引越しに伴い、大学生の一人暮らしにしては多い蔵書を処分することとなった。そのため、再度読んでおこうと思った本をピックアップし読書ウィークとなっているわけだが、「コンビニ人間」はとんでもなく良かった。ざっくり言うと(ざっくり言えない話なので乱暴なまとめ方をしている)、アラフォーのベテランコンビニアルバイトの女性(社会不適合者)が自らのアイデンティティをコンビニ店員に見出す話。

昔なんとか大賞をとっていたと思う。その当時に単行本を買い、特に意味も理解することなく読んだ。確か、父の実家からの帰り道だったと思う。

大学生になり、社会不適合者ということを肌で感じている。そして、アルバイトという点においても私はコンビニを選択したので、あとはここから15年くらい勤続したら近い状態にはなる。

この小説の主人公は極論なんだけど、共感できる部分が多かった。コンビニの仕事、コンビニ店員でいれば良いという楽さ、周囲の扱いなどなど。

うわぁーって気持ちを言語化できていないのでここで終わるが、特に現代を舞台にした小説は人生のうちに何度か読んでおこうと思った。

お題「ささやかな幸せ」

お題「ささやかな幸せ」

 

思いのたけを推敲もせずことばも選ばず書いたので中和用に。

ささやかな幸せというと細かな達成感を得られるものだと思う。何事でも構わないが、何かを成し遂げた時が一番幸せ。

今日で言えば、本を読み切り、ずっと放置していた課題の題目を見たり、布団を洗濯し、洗い物も半分して、風呂にも入った。正直うっすーい一日といえばそうかもしれないが、色々これやったこれやったと書いたら今日も一日やり切った感が出る。たぶん自分には行動力やソシャゲでいうスタミナみたいなものが欠如しているのだとは思うが、小さな一歩を踏み出せた時が幸せ。

でも一番の幸せはお酒を飲んでいる時。家で一人ベロベロで誰にも迷惑かけずにごちゃごちゃ考えなくていいあの瞬間は何にも代えがたい。対話相手としての自分が鳴りを潜めるのが大きい。いつもありがとうお酒さん。明日もよろしく。

よくできたもので

前も同じようなことを書いたが、「忘れる」ことの重要性をひしひしと感じる出来事があった。前は、元カレから連絡が来るみたいな感じで書いていた。ちなみにその一件から思い出す頻度は格段に上がって気が滅入っている。

今日は同窓会(もちろん欠席)の会場から電話が来たというものだった。シンプルに地獄だった。電話、同窓会、温度差の三重苦。

まず電話。そもそも話すことが苦手で嫌いな私にとって電話は天敵である。数少ない友人(知人と言った方が近い関係性まで落ちている)も、話さなきゃいけないタイプというわけではなく、無言でも大丈夫だったりよくしゃべってくれるタイプ。電話をすることもまあない。電話は会話の為の道具である。会話の為の道具を用いて話さないというのは普通に考えておかしなことなのである。だから嫌い。

次に同窓会。基本的に昔の自分は引くほど気持ち悪い。一挙手一投足が気持ち悪い。なぜそんな言動をするのか、もっと大人になれよと思うことばかり。記憶にあるうちで許容範囲内の自分は2年くらい。そんな未熟で気持ち悪い自分を知る存在を相手に話すというのはまったく楽しいものではない。しかも昔の話か最近のどうでもよい身の上話だけ。つまんないしつらい。

最後に温度差。これが一番。会場から独り暮らしの部屋に電話かけて来て、テンション高くするのなんて無理でしょ。嫌だよ。なんでそんなことできるんだよ。さらし者にされていた気分。いや、本当にさらされてただけなんだけど。

もう二度と関わりたくない。思い出したくない。10分にも満たない電話だったが、ものすごく長く感じた。汗もがっつりかいた。電話が終わった後は、昔の自分の反省会。自問自答。電話での対応でも反省。もういやだ。変につながりをもったことを非常に公開している。早く忘れたい。心の片隅にもいないでほしい。

 

記憶にはあるが引き出しが開かないみたいなことをよくいう。ここ最近は非常にそのあたりの機能に感心している。だから、のうみそくんは早く引き出しをしまって鍵かけて鍵穴つぶそうね。頑張ってね。

二度と会わない

もうすぐ3月。別れの季節。

私は大学の為に北海道に来て、大学卒業とともに北海道を去る。思ってたより数倍希釈された4年間だったが、関わった人もゼロではない。アルバイト先、学部、サークルなどなど。

かつて仲が良かったような人もいる。昔は毎日のように遊んでいた。予定も立てず、今から遊ぼうで繋がる人たちだった。今は数ヶ月に一度集まる程度。そんな繋がりももうすぐ切れる。

私は北海道を去る。この先の人生で、その人たちとはもう二度と関わらないと思うと流石に少し寂しい気もする。なんとなくだが、卒業式で泣く気持ちもわかった。もう二度と戻れないという不可逆的な何かを感じていたのだろう。私は涙脆くもないし、感傷的になるタイプではないため、泣いてるクラスの女の子が不思議だった。なんならせせら笑っていた。しかし、今にして、想像力が欠如していただけだったのではないかと思い始めた。

こんなことを書いている最中にも、夏休みは刻一刻と残り時間を減らしている。もっとやるべきことはある。ただ、私は宿題は後回しにするタイプだった。なんなら、提出日を逆算して9月も夏休みの人間だった。そんなやつに、今しかできないことなんてできない。だらだらして3月4月を迎える。

 

少し脇道に逸れたが、あんなに仲良かったのに今後一切関わらないと思うと少し寂しいねというお話。

そろそろ心の準備を

この頃、「日常」への回帰の動きが加速している。野球で言うと、応援の声出しが帰ってくるというニュースが割と大きなものだった。個人的にはどうでもよいが、まあそれを楽しみにしている人が喜んでくれるなら良いかなといった感じ。私が行く球場ではジェット風船の文化はないので関係ないと言えば無いのだが、あれを口で膨らませてる人がいると思うと気持ち悪い。コロナ云々ではなく、昔からお札や資料を舐める人が気持ち悪がられてるのと同じ。

さて、「日常」への回帰の重要なポジションを占めるのはマスクだが、私にはあまり関係のない話である。というのも、どうせこのままつけ続けるからである。毎春毎秋やってくるアイツのせいで。

もう2月直前。球春到来が待ち遠しい一方で、春の訪れは好ましくないとかいう複雑な心境。あーやだなあ。

 

例え話

自戒を込めて、例え話の中身について意識的になろうと思った。

経済関連の入門書の中で、イチローと草野球という話があった。私は野球ファンで、イチローも野球のポジションも知識としてある。筆者としても、これが皆に伝わる話として書いているのだろう。

しかし、野球が誰しも知っているものだという認識は今や誤ったものである。誰しも知っている流行歌が少なくなっているように、現代でスポーツにおいて絶対的な価値を野球は持っていない。野球のルールを知らなければ、イチローやメジャーも知らない人も多数いるのである。

例え話で全く知らない話をするというのは致命的で、ウガンダの話をウルグアイで例えられても一般的に理解できないわけである。

上に書いた通り私は野球ファンである以上、野球の例え話に何の抵抗もないし、例え話として分かりやすい。そのぶん、その点について意識的になりにくいという側面がある。

従来のように野球の例え話でいいやとしていたら、上の世代にはついていけても、気が付くと後ろには誰もいないということになりかねない。

ではどういうもので例えるかと言えばすっと出てこないが、積極的に見ようとしなければならないスポーツや娯楽ではなく、普段受動的に目に入るもので例えるべきであろう。